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「苦」とはなにか

これらの苦しみの中心に「私」というものが存在します。
それにもかかわらず、人はその中に自分を配置せず、他人を配置し、まるで他人事のように振る舞い、しまいには他人が苦しんでいるところを見て喜んでいる有様です。
苦しみが他人のところだけにあるうちはまだいいのですが、それが自分のところに来てしまうと、非常に困ることになります。
これについては皆様同じく感じていると思います。

たとえば「怨憎会苦」についてですが、憎い人がいない世界はありえません。
ある憎い人がいなくなっても必ず別の憎い人は出てくることになります。
また、「愛別離苦」についてもやはり、愛する人がいてもやはりこれもいずれ必ずいなくなってしまいます。
つまり、ある問題を今日解決しても別の問題が明日出てくることが多いのです。
それが直接自分にふりかかってきてしまうことになると大変苦しむことになります。
皆様も感たことがあるかと思います。
そこで、人間は現実逃避に走ることがありますが、これでは根本的な解決になりません。

そこで、これらの問題をどう解決するかが問題になります。
そのためにまずは「苦」というものをしっかり見ておく必要があります。
「苦」はまず、我々の周りを渦巻いているため、「苦」はむしろあって当たり前であり、むしろ真理であるといえます。
だから、それをそれとして受け入れればあまり苦しまずにすむのですが、それを逆にごまかそうとするから余計苦しむということが多々あります。
そのため、「苦」が常にあることを正確に認識できた人が苦しみのダメージを最小限にすることが出来ます。
こうした事実は知って頂くべきことであると思います。

とはいえ、苦しみというものを受け入れろといっても、素直に受け入れたい人はいません。
なぜなら、人間は好きでもないものを受け入れることは普通は嫌がるからです。
解決できないものを受け入れたいという人は普通はいません。
まして、仏陀の智恵を知らない人は受け入れられないでしょう。
また、これらを素直に受け入れるには心にゆとりがないといけません。

しかし、それでもやはり多くの人は、これから逃げようとします。
これを避けようとするともっと事態は悪化してしまいかねません。
たとえば、心にゆとりがないからこそ人と接する際分かれてしまうことを恐れるあまり必要以上に神経質になってしまいます。
そして、結果的に関係がギクシャクするということも考えられます。
また、心にゆとりがないからこそ、「苦」に対する対応に問題が出てきます。

逆に、「何が出てくるか心配だ」という考えを捨て、「何が出てきても心配ない」という考えになり、どんな苦しみであっても解決できる方法を持つ人こそが心にゆとりを持つことが出来、最終的に得をすることになります。

ただ、ここでどんな苦しみも解決できる方法をどうやって持つかが問題になります。
それは、宇宙真理を会得すればよいのです。
「宇宙真理」とは何か疑問に思った方も多いかと思います。
ではこの宇宙の真理とは何か、ですが、これは膨大な哲学書に書いてあって、それを理解するのに一生かかってしまうのでは意味がありません。
私達と深く関わっているお釈迦様は、それを「縁」であると一言で片付けてくれました。
これこそ、人間を幸せにする原点であるといえます。
「縁」とは、この世のものすべてのことを指し、この世のすべてのものはそれぞれが互いにかかわりあうことで存続してるという法則から成り立ちます。

いいかえると、ある人の周りにあるものは、その人とかかわることで存在しているのであり、それはつまりその人との係わり合いがなければそのものは存在し得ないということを意味します。
皆様にも同じことが言えます。
ということは、この世界は自分を中心にまわっているということになります。
常識ではこの考えはありえないと考える人も多いでしょうが、このことに気がついた人は、解決手段を見つけるための糸口をつかむことが出来ます。
そして、苦しみも自分の周りにいて直接かかわっている以上、苦しみは自分で振り払えるのです。

そのため、「苦」は他人が運んでくるという思いがあります。
そして、周りが変わってくれなければ自分の「苦」が取り除かれることはない。
しかし勘違いしないで頂きたいのです。
そういった考えは実は大間違いなのです。

彼らは本当の意味での「苦の運び人」ではありません。
真の苦の原因の運び人のような存在が別にいて、それが周りの人を手下にして運ばせているのに過ぎません。
その黒幕とは、実は人間一人一人の「私」自身の心なのです。
つまり、私の周りの環境はすべて私自身の心のあり方によってきまってしまうということです。
これは、この世は「縁」で出来ていて、自分はその中心にいることからすれば当然であり、それはつまり、心を変えることが出来れば環境を変えることが出来るということを意味します。

「集」とはなにか

私達の周りの四苦八苦の苦しみは、すべて私達の心が作っているものであります。
これらの苦しみから解放されるには、私達の心というものが非常に重要となってきます。
極端なことを言うようではありますが、これを理解すればもう私達の周りには苦しみというものは出現しないということになります。

この「心がすべてを作っている」状態を仏教用語で「唯識ゆいしき」といいます。
これは「ただ意識のみ」という状態で、自分の周りの環境はすべて自分自身が作っているということです。
たしかに最初から存在しているからそうではないだろうという考え方もあるでしょう。
しかし、これらをどう見ているかは人によってまったく違います。
ある一つのものを見るときであっても、皆様は別のものに見えると言うことが良くあります。

たとえば、縄が蛇に見える人がいたとします。
この縄が蛇に見える人を「迷いの心」といい、縄を見て輪に見える人を「悟りの心」といいます。
実は私達が普段やっていることは「迷いの心」そのものです。
なぜなら、世の中にある全てのものは仮に関わりあって出来ているものであるからです。

まず、この世は全て縁で出来ており、その係わり合いの通りに見ることが出来る人(悟りの心)はいいですが、多くの人はそうではなく、「縄を見て蛇だと思う」と言うようなことをやっています。
それゆえ、物事の本質を見ていない状態であり、様々な問題が生じてしまいます。逆に、悟りの心をもっている人にはそのようなことはおこりません。

そうであれば、きちんと物事の本質を見ることができればそれでよいということになるのでしょう。
しかし、わたしたち人間の心は、勘違いするように出来ています。
いわば人間の心は欠陥商品といえるでしょう。
このことを指して「唯識」といいますがこれは、お釈迦様が入滅してから1000年ほどたってからの仏教徒が解明しました。

まず、人間の心は8つの心から出来ています。
一番外側のことを外界(境)といい、その外のものを取り入れる際、5つの心を使っています。
これには眼の心、次に耳の心、鼻の心、舌の心、物を触って確認する身の心(以上各眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)があり、それらの心は外側にあります。これらのことを「前後識」と言います。

ひとつでもなくなると生活が非常に不便になります。
これら以外に、「第六意識」と言うものがあります。
前の5つは外から入ってきた情報を理解する心、いわば感覚意識ですが、これは外から入ってきたことについて考えるいわば思考意識と言えます。
これら外側で認識できるものをひっくるめて表層真理と言います。

その下にはまだ二つあり、それは、「第七末那識まなしき」と、「第八阿頼耶識あらやしき」です。
これらは、表層真理の下にあるという意味から「深層心理」といわれます。
これらは、隠れている為、私達が知りえるものではありません。
そのため、第六心理までで私達は生きていると思いがちですが、それだけでしか考えていないとどうしても分からない事が出てきます。
実際は、それらを仕掛けている意識があり、それは第七末那識まなしきです。

これは、自分が楽になることしか考えず、人が不幸になると喜ぶと言うもので、自我意識とも呼びます。
これは、4つの執着心(事物に固執し、囚われる事)で出来ています。

  1. 我癡で、自分が何なのか分からない心で、愚痴を言う心です。
  2. 我見で、まちがった幻想にとらわれてそれに固執してしまうことです。
  3. 我慢で、自慢すること(日常用語とは意味が違う)です。
  4. 我愛で、自分だけを可愛がろうとするものです。

これら4つの欲望をあわせて、「四煩悩」といい、これが第七末那識まなしきを占拠していますが、無料占いをお願いする皆様は外からはそれが分かりません。
私達は表層心理で考えているように見えますが、実際は無意識のうちに仕掛けられています。
あたかも自分の意志で動いているように見えますが、そうではなく、煩悩の方が強いのです。

また、これを仕掛けているものもさらにあり、それが「第八阿頼耶識あらやしき」で、「貯蔵識」とも呼ばれています。
これは、生まれてから言ってきたことや、心で思ったことを全て種として蓄えているものです。
もちろん、今言っていることもたまっています。
しかも、自分だけで無くご先祖様(人間になる前も含む)のものも全て蓄えています。

外からのものを受動的にとらえるのは前後識からですが、能動的に仕掛ける時は第八阿頼耶識(あらやしき)から表に出て行きます。
第八阿頼耶識あらやしきが第七末那識まなしきに命令し、その第七末那識が第六意識に命令し、第六意識が前後識に命令して行動に移る為、やはり第八阿頼耶識(あらやしき)が最も強いと言えます。

阿頼耶識あらやしき」とはなにか

そのため、人間は自分の意志に反した行動をとることが多いですが、それは自然なことであると言えます。
しかし、それによって自分のことだけ考えてこの世と関わる為、周りの人は嫌がることもあるでしょう。
それによって、自分にとって苦しい環境が出来、それ自体も第八阿頼耶識あらやしきに入ってしまいます。
これは個人差があるため、人によって第八阿頼耶識あらやしきが真っ黒な人もいます。 また、真っ白な人もいます。

しかも、これはただ入っているだけではなく、種のようなものである為、中にいたものが外に出てくることもあります。
そして、それが自分のことしか考えない第七末那識まなしきを仕掛けて行動をとらせるため、どうしようもない行動に移りがちで、そういった形でのみ世の中と関わる為正しい認識が出来ないばかりでなく、周りがそれを正そうとしても受け入れることが無い為、自分は自分のことを良くしようと思ってもよくならないという負のスパイラルに陥ってしまいます。
また、ここには四煩悩が宿っています。

この、外に出てくる「種」は3種類あります。
善の種、悪の種、中性の種があります。
まず、善人であろうと悪人であろうと自然にとる行動については中性の種が宿ります。
もちろん良い行動については善の種ですが、悪い行動をとらせようとする悪の種もあります。
その比率としては、九割九分が悪の種であると言われています。

善にせよ悪にせよ、いったん入った種は取る事が出来ません。
しかし、良い種をたくさん入れることによって第八阿阿頼耶識あらやしきに良い種の比率を高くすることで、悪い種の比率を低くすることは可能です。
そして、第八阿頼耶識あらやしきを善の種で満たすことが出来れば非常にいい世界が私達の前に開かれることになります。

しかし、私達は単純に「どうやって幸せになるか」だとか、「苦手な人とどう付き合うか」など、小手先の手段に走りがちですが、それでは不十分です。
私達が第八阿頼耶識あらやしきをよくするための方法は第六意識にしか存在しません。
これは、第七末那識まなしきの大親分のようなものです。

それでは、第八阿頼耶識あらやしきを豊かにする方法について述べます。
まずは、自らの善意で他人に施しをするということです。
これをすることで、四煩悩の一つの「我愛」が消えていきます。
次は、いわゆる「持戒」であり、悪いことをしないと言うことです。
これには、人の悪口を言わないとか、暴力を振るわないとか、邪な男女の関係を持たないなどが含まれています。
これをすることで四煩悩の我見が消えていきます。

その次は、屈辱を受けても耐え忍ぶこと忍辱にんにくです。
これをすることで四煩悩の「我慢」が消えるため、傲慢な気持ちがなくなります。
最後に、精進で、これは正しい努力をするということです。
これらを極めることで、我々の意識化にある末那識まなしきを攻撃できるようになります。

これらを日常的に実践したうえで、禅定つまり、瞑想を行います。
般若心経を1日1度唱えるのもよいでしょう。
これを続けていれば智恵を会得でき、そうすれば第八阿頼耶識あらやしきは善の心で満たされ光り輝くようになり、外からいいものが入ってくることが自然に起こるようになります。これは、第八阿頼耶識あらやしきがこの世界を作っている事からすれば当然です。この実践のことを「六波羅蜜」といいます。

般若心経の「行」とは、実践することで、般若波羅蜜多とは、般若は智恵のことで、波羅蜜多は六波羅蜜の第六番目のことを言っています。そして、「行深般若波羅蜜多」とは、六波羅蜜を実践した時であると言えます。
そして、次の「照見五蘊皆空」は、五つの塊は全て「空」であるということがわかるということで、全ての苦しみから解放されるというわけで、つまり、「六波羅蜜を実践すれば全ての苦しみから解放される」という意味になります。
これは、第八阿頼耶識あらやしきを善の種で満たせば、まわりの苦しみが全て消えてなくなることと同義です。

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